著者:トリイ・ヘイデン
訳:入江真佐子
出版社:早川書房
家族は、赤の他人同士の関係から夫婦になり、子供がいることで家族になる。
結婚して子供が産まれる。離婚して、また他の人と結婚する。それを再婚と呼ぶ。血の繋がっていない親のことを義理の親という。当たり前のことだ。世界のいたるところで起きていることだ。何度も何度も繰り返されてきたことだ。
当たりまえだと思うことは、世界に多い。
親が子供を愛することも、私の中では当たり前だった。
この本を読んでいると、当たり前なんて無いのではないかと思い始める。きっと、運がいいとか悪いとかの話になるのだろう。私は、運が良かったんだと。
虐待された子供たちは家ではない、施設や病院に住むことになる。里親に出されることもある。虐待した親は、そのまま家に居座るか、監獄される。または、施設か病院に住むことになる。家庭は、家庭でなくなる。
元の状態に戻るだけのようにも思う。だが、それは違う。
なぜ、新たな命を、人が増えているのに元の状態に戻ったといえるだろうか。
施設があるということは、それだけ多くの命が、そこに来ざる負えない環境下、親の元で生まれたということだ。なぜ、増やすのか?施設に、また一人また一人と増える人、子供は産まれたいと懇願したのだろうか?この物語で出てくる施設の細かい情景を通して、恐怖を感じた。
当たり前が当たり前ではなくなる感覚は、すでにあったはずなのに、私にとって全く見えなかった新しい世界だった。

この物語は、著者であるトリイ・ヘイデンが、ある施設で椅子をひっくり返して囲いをつくり、机の下で檻のようにした中で背を丸めている180cm近い身長のある男の子との思い出という奮闘の物語である。
読み始めは、なぜこの男の子が檻の中にいるのか、この施設に来るようになったのか細かいところまで不明なままだった。想像はあくまで、想像として、きっとひどい虐待を受けたのだろうということだけだった。
“ひどい虐待”とは、何なのだろうか?
“ひどい”とは?私が知っている“ひどい”は、この男の子が知っている“ひどい”と、どれほどの違いがあるのか痛感すれば心臓がぎゅっと縮むような感覚になった。
私が知っている世界の狭さをこの本を通して垣間見ることが出来たのかもしれない。私は、この世界を知らない。当たり前は、当たり前ではない。
この著者トリイ・ヘイデンの物語の多くは、実話であり、生きている人間の人生の一部だ。それをこのように、物語を通して読むことができることに私はとても感謝している。
もっと早く、この著者の本を手にとっていたのなら私の人生は違う方向に行っていたかもしれない。そう思うほど、深く心に残る一人の作者であり、本たちだ。
読んだ後に、世界に向ける私の視点は、変わった。
コメント