
著者:トリイ・L.ヘイデン(Torey L. Hayden)
訳:入江真佐子
出版社:早川書房
第一印象は表紙が、コワい。
芸術的とか言えば聞こえが良いだろうけど、第一印象としてあまり良いスタートではなかった。
それなのに、この本を手に取ってみようと思った私は、きっと何かを感じたのだろう。
“虐待”について特別な感情を持っていたわけではない。
ただ、なんとなくシーラについて知りたくなった。
この本は、著者であるトリイが、情緒障害や様々な背景をもった子供たちが通うクラスの教師として出会った、シーラという女の子との物語である。
“家庭崩壊”、耳にしたことはあった。
イメージは、あくまで“言葉”という形だけのイメージだった。
でも、この本を読みながら、本当の意味での“家庭崩壊”が生々しく感じられた。想像を絶することが同じ地球の中で起こっていることがあまりにも悲しく思えた。家庭の大切さを感じざる負えなかった。子を産むということ、親になることの責任について考えざる負えなかった。たとえどんな形であろうと、生命を生命として、愛情をもつということは果てしなく重いものであると感じられた。
作中で、シーラが好んだ本があった。
【星の王子様】という本の中で、主人公の王子様がキツネに出会う。
王子は、「遊ぼう。」とキツネを誘う。
「遊べないよ。飼いならされていないから。」キツネは、答える。
…ここで“飼いならす”とは、仲良くなること。自分の時間を相手のために費やすということ。お互いに離れられなくなる関係を築くということ。
キツネは言います。
「飼いならしたら、いつまでも責任をもたないといけないんだ。」
シーラは、トリイに“責任”という言葉の意味を聞きます。
そして、「トリイは、私を飼いならしたんだ。」とシーラは、言います。
教師が、生徒と過ごす時間は決まっています。
学期が終わり、始まるように、限られた時間は、誰にも止めることはできません。
時間が限られているとわかったうえで“飼いならすこと”は、残酷なことでしょうか?
限られているとわかっても、愛しくて抱きしめることは、罪なのでしょうか?
一瞬一瞬を大切に過ごすことで、相手を傷つける結果になるのなら、始めから出会わなければ良かったのでしょうか?
出会いと別れによる、痛み。
愛したいという、“ひと”としての痛み。
生きていくうえで何度となくある、この痛み。
忘れてはいけない、“痛み”を教えてくれる【シーラという子】。
ぜひ、一度手にしてみてください。
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